海斗の生い立ち



海斗1才まで
海斗は東海地方の県境近くの雪深い小さな町で生まれました。
私が子宮頸管無力症のため妊娠中は長期入院し 予定よりも4週 
早く生まれたが 元気な男の子だった。

 生後4ヶ月の頃
夕方になると必ずと言っていい程 ひどく泣かれて
夕食の支度ができなくて困った。

 6ヶ月の頃から
人見知りがひどく 家族以外はまったく寄せつけなかった。

 7ヶ月
私に対しての後追いがひどく 一時たりとて離れられなくなる。
TVの音や後ろでする音に反応するようになる。ハイハイができる。
つかまり立ちができる。
右手と左手に別々のオモチャを持てるようになる。
なん語もたくさんでる。

 8ヶ月 
よだれがひどく口の周りががぶれる。足の裏を
触ると以前は嫌がっていたが それを笑うようになる。
伝い歩きができる。一人遊びができるようになる。


 9ヶ月
長時間一人遊びができる。小さな物を指先でつかめる。
1人で立つことができる。

 10ヶ月
歩くことができる。バイバイの仕草ができはじめる。
一人で遊び出すと 後ろからいくら声をかけても振り向いてくれ 
なくなる。耳の聞こえを心配したがTVの音などには反応していたので
その不安はすぐに消えたが 気になり肩をとんとんとたたくと
まるでうっとうしそうな顔で振り向くあの顔は忘れられない。
 
 11ヶ月
壁や物陰に隠れてこちらを伺うので こっちも隠れて様子を見ながら
少しずつ顔を出して行き 目と目が合うと笑い出す。


1才のお誕生の頃
できていたバイバイの仕草ができなくなった。
同じ頃生まれた子達の中で できないのは海斗だけだった。
「あーあー」と誰かに話しかけるようななん語はあるが まだ
ちゃんとした言葉はない。
このころから言語発達に不安があったのでかかりつけの小児科医に言葉がでないことを相談すが
「大丈夫ですよ」と言う返事に
「まだバイバイもできないんです」って言うと
小児科医は「えっ」て顔をした。
その時もう少し突っ込んで聞くべきだった。
パパさんが持っていた医学書の小児の欄を読みあさった。
海斗の成長で不安になる部分と一致するのは「自閉症」「知的障害」「言語発達遅延」などの文字。
不安になったのを覚えている。
この頃 パパさんに転勤の話がきた。同じ県内ではあるが100km程南下した所にある温泉町だ。
私たちはその町でそれから7年間過ごすことになる。




海斗2才まで
新しい町では公立病院に勤務したので その官舎に住むことになる。
同じ官舎に小児科の先生一家が住んでいたのは心強かった。
官舎の人達には仲良くしてもらえたが 田舎町だからかよそ者には
冷たくて幼児サークルに入ったりしても なかなかママ友ができなかった。
この町のママ達の輪の中に入れたのは 海斗が就学してからだった。


 1才半のころ
言葉がでないのに指さしの発達だけは早く 何でも「うー!」と言って指を指す。
この「うー!」にはいろいろの意味が込められていて
「これとって」や「あれなに?」などたくさんあり
その都度指さしの方向とその意味に神経をとがらせなければならなかった。
当時のコミュニケーションはすべてこの「うー」と指さしで
それは海斗自身が言葉を持つ3才過ぎまで続く。
 
心配でたまらなかった私は 小児科の先生の奥さんに相談した。
「海斗は言葉の発達が遅れているから自閉症じゃないかしら」と。
  でも返事は「何を馬鹿なこと言って!」だった。
後日旦那様である先生にも聞いてくれたらしく
「海斗は目を見て笑うことができるから自閉症ではないし心配はいらない。」と言われた。
それでも言葉の遅れが気になった。   
 



海斗3才ぐらいまで
2才になっても言葉がでなかった。
なんとかして話せるようにと 私は一日中海斗に向かって話し掛けた。
この頃から 海斗にパニックが現れるようになる。
出かける時は帽子と靴とぬいぐるみがワンセットで 靴や帽子にこだわりが出始め
新しいものを買う時などは試着すらさせてくれず苦労した。
お散歩に行くと必ず小石を集め 私の鞄やポケットにはいつも小石だらけになった。
お散歩の道順も決っていて ちょっとでも違う道に行くとパニックを起こした。
   
お下がりでもらった車の遊具の「くまさん」(写真)がお気に入りで
座席の下の物入れに手にしたものを入れなければ気が済まなかった。
 
後に、このくまさんに対するこだわりを壊すのは大変だった。
    でも そのこだわりがなくなった頃から海斗の発達が始まったのだが…



自動車に興味が出始め それもこだわりになって行き、
又 そのこだわりが一番強く現在でもその傾向は残っている。
この2〜3歳までの海斗は本当に育て難く こだわりとパニックの毎日で私は毎日イライラしていたように思う。
「自閉症ではないか」と疑う自分と躾が悪いからだと思う自分がいて
どうにかしなければ…と毎日焦っていた。
誰にも相談できずにもがいていたように思う。
 
小児科の先生に相談をして 言語訓練に通う事になる。(海斗2才1ヶ月ごろ)
この言語訓練で海斗と私はS子先生に出会う。
この出会いが私達親子にとって どれ程素晴らしかった事か。
このS子先生に出会わなければ 今の海斗はいないと思う。

言語訓練に通いながらではあったが 保育園に入園させた。
海斗が2才9ヶ月のことである。
私は専業主婦であったが事情を話し 少しでも同年代の子供達と交流を持たせて言葉の発達を促せたかった。
でも 保育園(この町には幼稚園はなくこの保育園があるのみだった)は
言葉のでない海斗の一日保育を認めてくれず(手が係るからとの理由で)
お給食を食べたら帰宅するのが条件の保育であった。
それでも入園させたくて 3才未満児のクラスに入れてもらった。
 



   海斗保育園のころ

3才未満児のクラスで一日3時間の保育を受けながら 月に一度言語訓練(以下 ST)に通う。
保育園でははじめ教室にさえ入る事ができなかった海斗ですが だんだんと保育園にも慣れて行きました。

年少さんに進級しても言葉を持たない海斗の一日保育は認められず給食までの保育が続く。
(この時の保育園側の対応に理不尽さを感じ、普通に産んでやれなかった事をどれほど海斗に謝ったことか…)
年少組になるのを前後して 3件の病院と児童相談所で自閉症、知的障害の診断を受ける。
(これらの診断の時のことは別のページへ)

大阪のA訓練センターに行く。 ここでのお話や見せてもらったビデオ、本などで私の考え方が変わって来た。
ようやく海斗の障害を受け入れて 全て認めることができたように思う。
その後 1つあった海斗のこだわりを崩すことに成功した、この頃から海斗の成長が著しくなった。
親が変わらなければ 何も始まらない、動かない…
 

年少組で初めての参観日。まだ喋る事も歌う事もできない海斗が
お歌の時間にパクパクと口だけ動かしている姿を見た。
「うー」しか言えないのに皆と同じように歌いたいんだ。
みんなと同じようにお話したいんだ。
なんとかして歌わせてあげたい、お話できるようにしてあげたい。心から思いました…
その時の海斗の姿は今になっても忘れられない。


加配の先生を付けてもらうために 療育手帳を発行してもらう。
軽度知的障害児であるという証明であるが この手帳を手にした時の気持ちは言い表せない…
貼付しなければならない海斗の写真は 一番写りのいいものを選んでやることしかできなかった。

STは週に一回受ける。
少しづつ言葉が出て来はじめる。
言葉の数が増えるに連れて パニックやこだわりが減りはじめる。

町で唯一のスイミングスクールにも通う。でも どうしてもなかなかコーチの言う通りに体が動かない海斗。
同じ班の子はどんどん進級していくが いつも海斗は置いてきぼりだった。
決してふざけていたのではなく 海斗自身必死でやるのだけど運動音痴で
思うように体が動いてくれなかったのだと思う。
 

役場の保育課の担当の方と何度も話し合をして やっと一日保育が認められた。
加配の先生も付けてもらえた。
年少の1年間、本当に訓練と療育に明け暮れた… 自分の時間は全て海斗の為に使ったと言っても過言ではないと思う、それぐらいだった。
この1年間に爆発的に言葉が増えて行った。

   


  年中に進級
二語文、三語文など順調に出てきて コミュニケーションに不自由がなくなった。
公文にも通い出した。
乾いた大地に水がしみ込むように 何でも吸収する海斗がいました。
そしてあれ程多動でじっと座ることができなかったのに 長時間座ることができだした。
年少の時に取得した療育手帳は 更新の時の発達テストで知的障害がないとの判定を受けたので返す事になった。
そのため加配の先生は外されることになった。




    年長  

STのS子先生の勧めで感覚訓練(OT)を受けるようになった。
指先だけでなく体全体で不器用だと思い知らされた。
就学検診の前に保育園に海斗の障害についての情報を学校に流さないで欲しいとお願いする。
それは 現在フォローを受けている病院のドクターからも「言う必要はない」と助言されたこともあるし
私たち夫婦がみても今の海斗を知る人(海斗の幼い頃を知らない人)に診断名を告げても
誰も信じないだろうし
逆に診断名だけが一人歩きして誤解が生まれそうな気がしたからだ。
だが就学時検診の後で呼び出しを受け
そこで学校の先生と口論になるが普通学級のみで通級なしにした。
現在もこちらから学校には診断名など一切説明をしてなく
また学校からも求められていない。
公文では進度ペースが早く 就学の頃には筆算などができるようになっていた。




小学生

 
1年生

何もかもが初めてのことだらけ、親子で緊張の毎日だった。
自宅から小学校まで海斗の足で1時間近くかかり
毎日地域の登校班の6年生の歩くペースに
必死になって付いて行く海斗の後ろ姿が忘れられない。
私はPTAの役員に選ばれてしまい
それを切っ掛けにしてこの町のママさん達とお話ができるようになった。
それまでほとんど海斗の同じクラスの子の親御さん達と話をした事がなかった。
ただ 小さい町なので話はした事がなくても皆 顔だけは知っていたのだけどね。
海斗のお友達が家に来たり こっちが行ったりして遊ぶお友達ができた。
それがすごく嬉しかった。

山奥の温泉町だったので 近くにスキー場がたくさん在った。
私は海斗を産んで以来、海斗は当然初めてのスキーをした。
運動音痴で体育は苦手だけど それでも何か1つは自信に繋がるものを…と思ったから。
初めはスキー教室に入れたけど やはり海斗の覚えは一番悪くコーチの手を煩わせたらしい。
私の友人にスキーの達人がいて その達人に海斗のスキーコーチをお願いした。
マンツーマンで教えてくれた甲斐があって 雪国の子らしく滑る事ができるようになった。
その頃は毎週のように学校を休んでスキー場に通った。
(平日の方が空いているしリフト代が安いから 笑)




2年生
学校の水泳の授業で検定があった。1年生の時は5mしか泳げなかったので 例の達人に海斗のコーチをお願いした。
猛特訓の成果か検定では30m以上泳げた海斗。応援に力がこもった。

不器用でできないことだらけ。
いまだに折り紙も大の苦手。
体を動かすことは大好きだけど 体育の授業のようにそれが指示として入ってくると 上手く行かない。
それでも 少しづつだけど できるようになって行く。
みんなには小さなハードルでも 海斗にはそれが何倍もの物だったりする。
スキーも水泳もそれができるようになるまで本当に頑張った。
本当に 本当にがんばった。


山奥から片道2時間半かけて塾に通い始めた。


1年生の時から始めた剣道で一泊合宿に参加した。
保育園児から高校生と先生達の中で なんとか無事に終わった。
初めての事だったのですごく心配した。
とても楽しい合宿だったらしく 親が思うよりも子供はたくましいのかも…。


春の頃から大阪に住む義父(パパさんのお父さん、つまり海斗のおじいちゃん)が体調を崩し 何度も大阪と山奥を往復するようになった。

11月  義父が他界した。
今まで勤務医で構わないと思っていたパパさんの心境に変化があり、
大阪に帰り開業することが決った。
遠く離れていて看護を思うように出来なかった後悔があるのだと思う。

2月  私と海斗は開業準備のため パパさんより一足早く大阪に引越して来た。
パパさんにはギリギリまで勤務医をしてもらう為で 開業準備はほとんど私の役目だった。
海斗は今まで沢山のお友達がいてクラス全体が仲よかった環境から
いきなり都会の手強い子達の中に入って 戸惑う事が多かったようだ。
お友達が出来なくて辛い時期があった。




3年生

田舎育ちの海斗には都会の学校生活は なかなか馴染めなかった。
いじめられることもあり 体中あざだらけだったこともあった。
文房具などを貸したら返してくれない子もいて 友人関係には悩んだ。
私はPTAの役員になった。
海斗の学校生活を知りたかったし 少しでも色々な情報が欲しかったから。

10月  山奥で単身赴任していたパパさんが退職して帰って来た。
開業準備で毎日が忙しかった。
この頃は海斗のことには手が回らなかったように思う。

11月  パパさん開業する。一番楽しみにしていたのは海斗だと思う。

12月  海斗をいじめていた子とは4年生では別のクラスにして欲しいと
先生にお願いする。
親がクラス替えのことまで口をはさむのはどうか…とも思うが
いじめられる子の親としては 出来る事は何でもしてやりたかった。




4年生
4月  今までとは別の塾に通い始めた。
以前の塾は海斗にはレベルが高くてついて行くのが大変だったし
成績の良くない子のケアは熱心でなかったように思う。

私はまたPTAの役員になり 学年代表にもなった。

学校での海斗は係の仕事をきちんとする様子で 家と違う顔もあると分かった。(笑)
担任は厳しい先生で 子供たちも戸惑うことが多かったようだ。

9月  家が近くの子が海斗をいじめ始めた。
でも先生のおかげでうまく収まり これが切っ掛けでその子達と海斗が仲良くなった。
塾のない日は一緒に遊ぶことが多くなり
大阪で生活が始まってから 初めて学校が楽しくなったようだった。

行動範囲が広くなり 自転車にのって結構遠くまで出かけていることがある。


   


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